「EZ DO DANCE」は大和アレクサンダーによる「硝子の少年」である

何を言っているのかわからねーと思うし自分でもよくわからないけど大和アレクサンダーのことを考えたら止まらなくなったんだよ!という話。

※本記事は現在公開中の映画『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』のネタバレを含みます。
※文中の情報は主にネットから得ているため齟齬もあると思います、そして何もかもが自分の解釈に基づくものです予めご了承ください。


前作、『KING OF PRISM』(以下キンプリ)を観た際は「オバレ箱推しカヅキ担だけど、アレクも気になる」程度だったが、現在公開中の『KING OF PRISM -PRIDE the HERO-』(以下キンプラ)のプリズムショーで、完全にアレクに頭をやられました。

ゴリゴリの低音が響く『EZ DO DANCE』、男児向けアニメ感のある強そうな衣装、筋肉量の増した3Dモデルで歌い踊るアレクの逞しさ、そしてのっけからガラスを割る演出、常人の発想の域を超えたプリズムジャンプの数々。

情報量の大洪水である本編の魅力、そして「映画館のスクリーンで、またアレクのショーを観たい…!」という発作を抑えきれず映画館へ通い、アレクのショーを観るうちに、「これがアレクなりの硝子の少年時代ー!破片が胸へと突き刺さるーー!」と言い出すようになりました。

私がアレクのショーに惹かれるのは、物理的に強そう(つよい)から、という理由も勿論あります。

しかし何より、アレクのショーには「今この瞬間しか観ることの出来ない、大和アレクサンダー(16)の煌めき」がギュッと詰め込まれているから、こんなにも魅了されるのではないか、と思い至ったのです。


純粋な熱量

アレクは「ストリート系であること」に誇りを持ち、真摯に向き合っています。
ストリート系とは何か、どうあるべきか、己の信念を持ち、周りに流されることなく邁進し続けています。

確かにアレクは、アカデミー系という「軟派なプリズムショー」を憎み、プリズムキングカップという「チャラチャラした大会」を破壊しようとしました。しかし、アレクにとって、ストリート系のプリズムショーは価値あるものなのです。
その思いは、強い。

そうでなければ、24時間筋肉を鍛え続けることも、シュワルツローズの厳しいレッスン(アレクにとっては手ぬるいものかもしれませんが…)に耐えることも、必要がないでしょう。


「ストリート系が唯一絶対である」というアレクの考えは過激なものです。
しかし、それは言い換えると、「純粋さ」であるとも言えます。

大人になると、組織で働きはじめると、「白黒はっきりしないこと」「絶対などないこと」が、人の世には沢山あることを嫌というほど思い知らされます。己の思想を捻じ曲げること、個人的な信念を捨てる必要がある場面に、めぐりあうこともあります。対立する相手と譲歩し合い落としどころを見つけることが、妥協のように感じられることも。

人の世で生きるために様々なスキルを得てきた自分には、他者との対立や拒絶を恐れないアレクが、ストリート系が絶対であると身をもって証明しようとするアレクの在り方が、あまりにも純粋で、傲慢で、眩しく映るのです。

失うものは何もないと言わんばかりに、すべてを破壊し尽くそうとする姿。

純粋に己の信念を貫こうとする、その熱量。

そこに10代ならではの暴走、という意味を見出さずにはいられません。


自由と執着

ストリート系の本来の在り方は、「FREEDOM」、何にも縛られないことであると私は考えています。

キンプラで黒川さんがカヅキさんに問いかけた言葉。「君は、黒川冷になりたいのかい?」

そこから舞闘倶楽部ネストドラゴンでの経験を経たカヅキさんは、「憧れの誰かになろうとする」「誰かに教えてもらう」という道を選びませんでした。自らの課題に気づき、滝に打たれ、ひたすら己と向き合い、技を磨き続けました。

仁科カヅキがプリズムキングカップで魅せたパフォーマンスは、『FREEDOM』という曲名に相応しい、己の心のみならず、観客の心をも自由へと解放する、素晴らしいものでした。


アレクもまた、「憧れの誰かになりたい」とは思っていないでしょう。
アレクも黒川冷に憧れ、「ストリートのカリスマ」の称号を得たいと思ってはいますが、それは「黒川冷になりたい」という意味とは異なるはずです。(まず黒川冷はプリズムショーを破壊したりしないですし)


しかし、私はアレクには不自由さを感じます。

アレクの中には、「仁科カヅキ」への凄まじい敵意があるからです。


愛の反対は無関心、とはよく言いますが、あれほどの敵意を抱くことが出来るのは、「仁科カヅキ」という存在への強い執着への裏返しとも解釈できます。
(アレクは、かつてカヅキさんに憧れていた部分もあるからこそ愛憎反転で、あれほどのライバル心と執着心を抱いているのかな…と私は勝手に感じています)

プリズムキングカップにおいて、アレクはプリズムショー界の破壊と粛清を布告しました。本来ならそれだけでも、彼の信念、彼の在り方を示すには充分でしょう。

だがそれだけでなく、アレクは仁科カヅキ個人へも宣戦布告し、挑発していました。


あのアレクのショーは、プリズムキングカップの破壊だけが目当てではなく、真の目的は、カヅキさんをステージへ招くことだった。


カヅキさんとアレクは、「対等なライバル関係」ではありません。力量の差もそのひとつですが、何より、アレクはカヅキさんをライバル視していても、カヅキさんはそうは見ていません。
ある意味、タイガくんとアレクの方が対等というか、対になる存在なのではないでしょうか(カヅキさんとの関係性においては)。

カヅキさんにとってはアレクも他の人達と同じく、等しく、分け隔てなく「ストリート系の後輩」であるように感じられます。

破壊者であるアレクを否定も排除もせず、カヅキさんが再建した舞台の上に、アレク(龍)も招き入れたこと。
プリズムショーは数字では測れないと、タイガだけでなく、アレクにも同意を求めたこと。

また、法月仁に失望してエーデルローズ合格を蹴り、「プリズムショーはどこでも出来る‬」「チャラチャラしたアイドル」とヒロ様に言い放った過去の自分の姿を、カヅキさんは、アレクの中に見出しているかもしれません。

まるで悪役のような出で立ちと振る舞いのアレクですが、カヅキさんはアレクを「敵」とは思っていないでしょう。 所属は違えど、ストリート系の「仲間」だと、そして年下だから「後輩」だと思っているのではないでしょうか。

アレクもそういったことを感じ取ってるから、カヅキさんからああ言われて、頬を赤らめたのかなと。


とはいえ、EDでカヅキさんが修行した山にアレクが挑もうとしていたのは、カヅキさんを慕う心からでなく闘争心からでしょう。
山を降りてからも、アレクはきっと、カヅキさんに挑み続けるはずです。

カヅキさんに憧れてプリズムショーを始めたタイガくんはいずれ、「カヅキ先輩に挑もうとしない」ために「カヅキ先輩を超えられない」という壁にぶつかるのではないか、と私は考えています。
(『黒子のバスケ』において、どうやっても青峰くんに勝つことの出来なかった黄瀬くんが「憧れるのは、もうやめる」と決意して、青峰くんへ挑んだときのように)

それは、「カヅキさんに挑み続けるアレクであれば、カヅキさんを超えられる」ということを意味しているわけではありません。
アレクはアレクで「仁科カヅキへの執着心を捨てないと、仁科カヅキは超えられない」という地点に辿り着くのではないでしょうか。

奇しくもカヅキさんが、黒川冷に弟子入りしようとして「君は黒川冷になりたいのか?」と言われたように。

ストリート系の真髄は「FREEDOM」な心にあります。
「誰かのようになりたい」という憧れも、「誰かを潰したい」という敵愾心も、形は違えど執着です。

執着は、人の心を「FREEDOM」から遠ざけてしまう。

だからタイガくんは憧れを、アレクは敵愾心を捨てることで、ストリート系としてさらなる高みへとのぼることができるはず。
そしてストリート系に(プリズムショーに)高いも低いも優劣もなく、カヅキさんを超えるとか超えないとかそういう話ではなく、そもそも何が「FREEDOM」であるかという定義にすら縛られることなく、それぞれが、それぞれの心のままに、自分の力を高めるために、ショーをするのがストリート系なのではないでしょうか。


打算と孤高

ストリート系を毛嫌いする法月仁が総帥であるシュワルツローズ。ゴリゴリのストリート系であるアレクを所属させるのは、あくまで対仁科カヅキ用の手駒にするため。

それでも学費や住居や食事、ギャランティという対価を得られ利害が一致するため、アレクはシュワルツローズに居続けています。
先ほどアレクの純粋さについて語りましたが、そんな打算的な面もあるわけです。

そのような「利用し合う」関係性を、まだ16歳の彼が選択したという事実を思うと、たまらない気持ちになります。


アレクもヒロ様と同じく、生まれた環境に恵まれていないのかもしれません。あるいは、親との軋轢があり、金銭的援助を求めたくないのか。

いずれにせよ、彼の傍に家族の影はなく、アカデミー系のシュワルツローズの中には仲間はいないでしょう。

ストリート系には彼の支持者もいるかもしれません。しかしカヅキさんのように「仲間に囲まれる」ことを選ばず、ひたすら自分の肉体と技を磨く「孤高」を選ぶのが大和アレクサンダーでしょう。


「プリズムショーの破壊者」「ストリートの暴君」として圧倒的な力を見せつけ、ふわふわしたベッドでは眠れないからと、寂れた街の閉鎖したビリヤード場を借り、ビリヤード台の上で眠るアレク……一体どんな過去を経たら、そんな16歳が出来上がるのか。


プリティーリズム・レインボーライブ』の世界線に、絶対的な「悪」はいませんでした。
最初は悪者のように見えた人たちにも、それぞれの事情や理由や悩みがあり、みんなそれぞれの幸せや未来に向かい歩いてゆきました。

時間によって、他者によって、環境によって。多かれ少なかれ、人は変わってゆきます。

アレクが一生涯、「プリズムショーの破壊者」であり続けるとは、私には思えないのです。まあ、あり続けてくれてもそれはそれで面白いしめちゃくちゃ好きなんですけど!でもきっと、そんなふうにはならない、という予感があります。


それほどに、アレクのショーは、あまりにも尖っていて、危うくて、純粋で、儚くて。

「硝子の少年時代の破片が胸へと突き刺さるってこのことかーーーーー!」と何回目かのキンプラを観て、思うようになったわけです。



さて、ルヰくんのショーも、あの年頃の中性的な美貌があってこそでしょう。(女の子めいた美しさだったひとが金髪を逆立てゴリゴリのヤンキーめいた見た目になり人を瓶で殴打するソロ曲をやる事例を僕たちは知っている)

シンくんのショーははちきれんばかりの笑顔で初々しかった前作と違い、キンプラでは時折男っぽいキメ顔が見られるようになりました。

カヅキさんの『FREEDOM』は、レインボーライブ時代の「少年」らしさから、「一人の男」としての覚悟と頼もしさを感じられるものになりました。

ヒロ様の『pride』は曲自体に荘厳なストリングスなどのアレンジも加わり、レインボーライブ時代からの「絶対アイドル」のきらめきだけでなく、キングに相応しい力強さと絶対王政を感じられる凄まじいショーでした。


アレクに限らず、すべてのスタァのプリズムショーは、「今この瞬間」の彼等の煌めきを感じられるものです。

たとえ同じ曲であってもこの先二度と、同じプリズムショーを拝むことは出来ないでしょう。


プリティーリズム・レインボーライブ』も、キンプリもキンプラも、女の子や男の子の「成長」を描く物語でした。だからきっと、次に私が観ることになるアレクのショーは、今作とは違うものになるはずです。

今作のショーが私は死ぬほどめちゃくちゃ物凄く好きなので、そのようなショーを拝めなくなることに切なさと儚さを感じるのですが、「少年時代」は長い人生の一瞬の煌めきだからこそ、我々の目に魅力的に映るのでしょう。


どうか『KING OF PRISM』が、これから先の物語も、見せてくれますように。大和アレクサンダーという少年の行く先を、見守ることが出来ますように。

その願いを現実にするために、私はこれからも映画館に通い、隙あらば友人をキンプラに誘う日々を続けます。